「絶望への共感」ということをご存知の方もいらっしゃるでしょう。
私が自分に失望し絶望したのは、妹から「お姉ちゃん、殺して」と言われた時です。それは、死の半年くらい前のことでした。妹は、モルヒネを打ち、かなり激しい痛みにもがいていました。殺してほしいくらい苦しい状況にあることは分かっても、私には、彼女の痛みも苦しみも、到底分かり得ない。まして、幼い子どもを残して死ぬという悲嘆。慟哭。変われるものなら変わりたい。けれども、それもできない。もどかしくて情けなくて…なすすべを持たない無力な私は、そばにいるのがやっとでした。痛みに耐え、苦しみにもがき、死の恐怖と闘いながら、声もたてずに泣いている妹。人生に絶望している彼女のそばで、ただ、おろおろしているだけの無力な自分への絶望。私もまた、闇の中で声もたてずに泣いていました。どれくらい時間が過ぎたことか…。妹が静かにこう言いました。「もう少しだけ生きてみる…」
後にこれは、「絶望への共感」だと言われました。「人生の絶望」を味わっている人のそばで「共感できない自分への絶望」を味わっていると。
「絶望への共感」。自分がそうしてもらったら、もしかしたら、生きる希望を垣間見れるのかもしれません。誰にもわかってもらえない、その悔しさ、虚しさ、憤り。分かってほしい。けれども、人は本当には分かり合えないのではないか。だからこそ、少しでも分かりたい、近づきたいと願う。それが『共感』への第一歩、そんな気がしています。
「絶望への共感」は、深く深く沁みとおります。
絶望の共感
タイトルにはドキッとしましたが、読むうちに逆に安心感も味わうような文でした。
共感してあげる
なんて奢りがどこかにあります
共感してもらいたいという甘えも
常にあります
大切なのは
心の奥底で、しっかりと受け取ってもらえた感じ
言わずとも心の中が見えるような体験って
たくさんある程
素晴らしいと思えます
心の中で、受け取る作業を考えてしようとすると、しんどくなるとも思います。
多分本当の共感は受け取る側も受けてもらう側も
しんどくならない事だと思えます。
相手の絶望状態にしっかりと向き合えず、そこから逃れたいがための励ましを与えている自分に絶望しています。ありがとうございます。
大切な体験を話してくださって、ありがとうございます!
できることは何もない…と思うことは、奢りなのでしょう。
改めて、どこに寄って立つかを思いました。感謝です(^^)
そして、シェアさせていただきました。
ありがとうございます!