開かれる

『ケアしケアされ生きていく』という本の中で、「子どもの開かれ」という言葉と出会いました。子どもは変に社会化されていないからこそ、「開かれ」ている、と。確かに、自由で無邪気で、世界に対して心が開かれている。だから、遠慮や忖度とは無縁だったはずなのに、いつの頃からか、人の顔色を伺い、気を遣い、不自由になってしまう。

私自身も、相手の求める答えを探している自分、相手の反応に怯えている自分に気づき、愕然とした記憶があります。今でも、時折そういう感覚になることがあります。それって、自分を押し殺して、不自由で、自分らしさから遠ざかることなのにね。「大人って不自由」だけじゃ済まされない、心の澱みが生まれる。

「開かれた心で行こう」。そう決めて動くと、自分に対しても敏感で、相手に対しても「遠慮」ではなく「配慮」がふわっと湧いてきて、自然体でいられるということを体験しました。人が私をどのように感じようが評価しようが、私は私だから。私を大きく見せる必要もなければ、人と比べて卑下する必要もない。どこまでいっても、借り物の自分ではなく、そのまんまの自分がいい。生きやすい。

「迷惑をかけるな憲法」は、この世に蔓延しているけれども、でも、生きていると、知らずに誰かに迷惑をかけていることだってある訳で、それこそお互い様じゃないのかな。そんなことを思いながら、青空を見上げながら、「今日も開かれて生きよう」と思う私です。