「クラピア」というグランドカバー植物をご存知の方も多いと思います。今春、岡山に帰ってきた時の我が家の庭は、草が伸び放題でした。見かねたご近所の方が、草よりもいいからと「クラピア」をくださいました。少しずつ分けて植えて、毎日水やりをしているうちに、かなりの面積に広がったのです。
道に面した家なので、水やりしたり草取りしたりしていると、通りがかりの方が声をかけてくださいます。「ずいぶん広がったね」「育てるの上手だね」。ほめてもらうのは気持ちいい。ほかほかします。中には、「これの間に生えてくる雑草が面倒なのよ」と言われる方もおられます。実感こもっています。そっか~と思うと同時に、言葉には、その人の心が表れることを感じます。
実は私、クラピアに目が慣れてきて、それ以外の草がすぐ分かるようになってきているのです。それが面白くて、草取りは苦にならない。それよりも私の(心の)目には、庭一面に緑の可愛いクラピアが広がっている様子が見えているので、楽しくてしょうがないんです。
心と言葉はくっついています。聖書では、神様の言葉は『言』と表現されています。ある方が、「言葉とは心の端という意味」とおっしゃいましたが、初めて聖書で『言』を見た時に、私たちの使う言葉は「神さまに繋がっているのかぁ」と感慨深く感じたものです。
言葉には、その人の感じ方や生き方、その人が見ている世界が表れるのですね。嬉しい時も苦しい時も、その時々の自分の心を感じつつ、できることなら、潤いのある、やわらかい言葉が使いたいものだと思います。人生への、確かな希望と信頼があると、言葉も変わりそうですね。でもね、無理してよい言葉を使っても、聞く人には、その言葉の奥にある本音が伝わるのです。ですから、苦しい時や悲しい時、悔しい時や腹が立つ時も、素直にそのまんまの心を出すようにしたいとも思います。そういう気持ちは、外に出すと、軽くなるんですものね。軽くなると、前に進めるよ。
素直に正直に。そして軽やかに。