「共感は難しくても、理解はできる人が増えてほしい」。
これは、東京大学名誉教授のロバート・キャンベル氏が自身のブログで書かれている言葉です。大事な感情である『共感』は、時に危うさもある、と。つまり、共感できた人の間に一つの«世間»ができてしまい、共感できない人たちとの間で枠ができてしまう、というのです。確かにそういうこともあるかもしれません。『共感』は、できるに越したことはないけれども、できないからと言って自分を責めることでもないし、ましてや相手を批判することでもありません。そんな時に、「共感は難しくても、理解はできる」と思えば、ずいぶん風通しがよくなります。「あなたの気持ちまでは分からないけれども、そういうこともあるとは思うよ」ということでしょうか。『共感』と『承認』みたいな関係かも。
教師10年めの頃、「分かったと思った時点で関係は切れる」と先輩の先生に言われたことがあります。「分かったと思った時点で、それ以上聞かないだろう」って。この時は、人間関係について言われたのですが、教材研究に関してもそうだなと思いました。授業のために教材研究をする。けれども、「分かった」と思った時点で、私は学ぶことをやめていましたから。今は、これは、生き方そのものにつながるものだと思っています。だからこそ、「分かった」の後、「他にはないかな」と思い直すようにしています。
「共感」も「理解」も、相手に伝わるのは、根底に流れている「愛」ではないでしょうか。「共感したい。けれども、今の私には共感できない。それでも、あなたは大切な大切な人なの」。絶望している妹に伝わったのは、あなたのそばにいたい、あなたはかけがえのない大切な存在なんだという、私の叫びのような「愛」なのではないかと思うのです。
たとえ共感はできなくても‥‥
相手のことがわからないという気持ち悪さから逃れたいと
この人はこういう人なのね。、と、自分でまとめてしまうことありますよね。
勿体ないことしてるのかも知れませんね。
折角、自分の中にない感情や生き方の幅が広がるチャンス逃してるのかも
と、思いました。