こんにちは(*^o^*)先生元気プロジェクトの籠井です。お元気でいらっしゃいますか。
最近、うつの友人にどう関わればよいかと尋ねられることがあります。皆さんは、どう思われますか?
私は、前回お話したように、休み始めの頃は、20時間以上眠っていました。やがて、身体がほぐれるほどに心もほぐれてきて、押し隠してきた感情が吹き荒れ出しました。「濁流に飲み込まれた一枚の木の葉」。それは本当に苦しくて、こんな思いをするくらいなら、いっそ死にたいと思いました。一度そう思うと、夜ごとに死の誘惑が押し寄せてくるようになりました。手首を切りたい衝動が、夜になると襲ってするのです。死にたい。でも、私が死んだら母の介護は誰がするのか。それだけが、死なない唯一の理由でした。
病床の妹に「殺して」と頼まれたことがありました。癌に蝕まれ、日ごとに強くなる痛み。死の恐怖。幼い我が子を残して死ぬ不安。心残り。。。「殺して」は妹の絶望の叫びだと思いました。でも、どんなに寄り添おうと思っても、私には、その絶望に寄り添うことができない。これが、私の絶望でした。お互いの絶望の中で、それぞれの闇の中で、息を殺した時が流れました。しばらくの後、妹は、「もう少し生きてみる」とつぶやいたのです。。。『絶望への共感』。どなたかが言ってくださいました。が、私には、よく分かりません。
ただ、今思うのは、「死にたい」は「死にたいくらい苦しい。しんどい。誰か分かって!」という叫びだということ。人は、自分の気持ちを分かってくれる人が、一人でもいれば生きていけるということ。何かをしてほしいわけではなく、分かってほしい。心のそばにいてほしい。信じてほしい。そう願うということ。
うつの方にどう関わればいいのか。皆さんは、どう思われますか?
ここまで読んでくださって、本当にありがとうございました。
大切なお気持ちを分かち合ってくださり、ありがとうございます。「黙って聞いてもらえるだけで助かる命がある」。なんと深い言葉でしょう。人は誰も、ひたむきに生きている。感謝します。
こんにちは。私は先程まで死の誘惑に苦しんだ者です。私は双極性障害を患っています。現在、55歳ですが、20歳に発病してから何度も死の誘惑に苦しみました。押しては返す波のようにやってきます。何度か未遂も起こして、周りに迷惑もかけました。おっしゃる通り、「死にたい」は「死ぬほど苦しい」ということだと思ってます。そして、その苦しさを誰かにわかって欲しいだけなのです。誰かれなしに「死にたいほど苦しい」とは言えません。多分、経験者だけが理解してあげられるのではないでしょうが。ただ、死にたいほど苦しい気持ちを聞いて貰えるだけでいいのです。それで死の誘惑の波は引きます。私も母、伯母の面倒を見ることで、一日を生きながらえています。黙って聞いて貰えるだけで助かる命があるのです。