自分を慈しむ

米沢では、「自分を慈しみなさい」とよく言われました。そもそも「慈しむ」という単語が自分の中にはありませんでした。「なんじゃらほい?」と思ったその日から、観察が始まりました。

「人の世話をする」ことに人生をかけている人。「人の世話をする」ことで見返りを求める人。「人の世話をする」のは、やりたいからであって、それ以外にはなにもない人。そういう人は、手を貸さずに見守ることもできる。「人の世話をする」にも、いくつものバージョンがあることに気がつきました。ごく自然な人は、いつもそこに笑顔がある。喜びがある。これが「自分を慈しむ」かなあ。

「教える」ということを生業にしてきた私は、「上から目線」と言われても、よく分かりませんでした。それが、「伝える」との違いを考え始めて、自分の傲慢さにハッと驚いた瞬間がありました。確かに私は「上から目線」でした。今思うと、本当に長い間「上から目線」で「教えてあげる」ことをしていました。それを親切だと思っていました。穴を掘って入りたい…そんな自分に「それでいい」「それでいいんだよ」「そうやって生きてきたんだものね」と声をかけ、そうやって身につけてきた宝物も再発見していきました。「教えることが生業だったからこそ、今の自分がいる。それでいい、よくやってきたね」。こうやって、どんな自分にも温かい声をかけていく。これが「自分を慈しむ」かなあ。

どんな時にも、「これが私」と気づいた自分を承認し、大切にしていく。その自分には、「よい・悪い」はない。どんな私も大切な私。唯一無二の私。そうやって自分を愛おしむことが「自分を慈しむ」かなあ。まだまだ探索中。

猛暑に台風。どうぞご自愛ください。