うつ日記。母との分離。

こんにちは(*^o^*) 先生元気プロジェクトの籠井です。

私は、母親と共依存の関係にありました。「共依存」聞き慣れない言葉かもしれませんね。つまり、母と私は、「二人で一つ」くらいのベタッとくっついた関係にあったのです。私が教師になったのも、「教師になりたかった」という母の思いを継ぐ形で、代わりに教師になったのです。それは、親孝行とも言えますが、私の意志とは違っていたとも言えます。そのことで、「本当にこれでいいのか」とずいぶん悩んだのですから。自分で「これでいい」と決断するまでは、母を生きている感じがどこかにありました。その葛藤で、一時期は、母を毛嫌いしていました。それが、母が脳梗塞で半身不随になることで、それまでの空白を埋めるかのように、べったりとくっついて過ごしました。仕事をしながら、母親に全エネルギーを注いだのです。そりゃあ、うつにもなりますよね。

けれども、そんな「自分を生きてない私」の事を気づかってくださった主治医の先生は、「お母さんと物理的に離れなさい。何が起こっても、たとえお母さんが亡くなったとしても、それは、お母さんの人生で、あなたのせいではないからね」と言ってくださいました。カウンセラーの先生も同様のことを言ってくださり、私は、まず、映画館にいる間は、携帯の電源を切るようにしました。

初めて電源を切った時には、身を切られる感じがしました。おかしいでしょう。でも、それくらい、母と離れられなかったんです。そして、旅行にも出かけられるようになりました。何が起こってもすぐには帰れない距離。これが、自分を生きるために必要な距離でした。少しずつ少しずつ、距離を、時間を空けるようにしていきました。そして最後は、顔面麻痺もある母が、何を言ってもニヤニヤ笑っているように見えて腹をたてた私が、母の胸ぐらを掴んで「いいかげんにしてよ!」と怒鳴って飛び出すという、今から思えば、ずいぶん大人げない、情けない自分をさらけ出しての親との分離の時となったのです。

病気になって、母とのスキンシップの時間を与えられたこと。これは、子育てをしたことのない私への「プチ子育て経験」でした。同時に、介護の経験も与えられました。治る見込みのない病との葛藤。それに嫌気がさして、「もういいかげんにして!」と叫ぶことありました。「早く死んでくれたら」とさえ思いました。そんな薄情な自分を責めたりもしました。さまざまな感情を与えてくれた母は、2009年、他界しました。

呼吸が浅くなり、間隔があきだした母に、こう言ったのです。「お母さん、産んでくれてありがとう。おかげでいい人生を過ごさせてもらっています。私は一人でも大丈夫だから、お母さん、安心して逝ってね」すると母は、フーッと大きな息を吐き出して、天に帰って行きました。

うつの時は、親離れの時であり、自分を取り戻す時でもありました。ここまで読んでくださって、ありがとうございました。また、お会いしましょう。