「揺らぐ」ということ

数年前に、SGPの相棒である大久保智弘さんと、「揺れる」ということについて議論したことがあります。「揺れるという事は、根っこがあるという事」「根がなく揺れると倒れる」「その時、幹が固いと折れる」「根が張り、幹がしなやかであることは大切だ」‥‥‥図を書きながら話し合ったものです。

最近、「ブレない自分になりたい」というご相談をしばしば受けます。そのお話を聴かせていただきながら、あの時の議論を思い出すのです。確かにブレない自分になることも良いでしょう。でも、ブレない自分は硬さに繋がらないかな。ブレるのは誰にも当たり前のことで、ブレた時に自分とどう向き合うかの方が大切ではないだろうか。ブレるということ、揺れるということ。その意味を考えてみたいと思います。そこには、私自身の経験が関係しています。

かつて私は、何があってもどんと構えてブレない自分でありたいと願い、自分を鼓舞して無理して踏ん張っていました。平気な顔してクールにやりのけようと考えていたっけな。そのうち、耐えきれなくなって壊れました。無理した分だけ、踏ん張った分だけ、潰れました。今思うと、素直に今ここの自分をさらけ出せばよかったのにね。潰れたからこそ思うのです。ブレないことが本当によいことなのか、と。

日本の五重塔は、やわらかく揺り動かされることで、壊れない構造になっていると言います。だからこそ、地震大国日本でずっと建っていられるそうです。揺れることを前提として、その揺れごと受けとめて立つ。しなやかに、その揺れに合わせて立つ。

自分の在り様に置き換えてみると、何か過重なものを背負っている時には揺らぐ。思いがけない出来事にも揺らぐ。その時には、自分を支えてきた価値観も揺らされているのでないでしょうか。そういう時は、しんどいです。でもその先に、新しい自分が待っていると思いませんか。次のステップに行く前の「もがき」の時かもしれない。そう思うと、揺れるというのは、可能性に向かっている証かも。揺れるという可能性。秘めた自分との出会いの可能性。いかがでしょう。