期待と裏切り

「裏切られた」という思いがぐるぐるぐるぐる回っていた時があります。どうしようもなく悔しくて惨めで情けなくて…「なぜ?」「どうして?」という問いだけがわき起こっていました。でも、ある時ふと気が付いたのです。「私の期待とは、私が思い描いたようになる事だったのか?」。

私たちは、誰かの期待に応えるために存在しているのではない。それはよく分かる。にもかかわらず、自分が相手に「期待する」時には、自分の思い通りになってほしいと思い込んでいる自分がいたのです。冷や汗が出ました。自分勝手なのは、私でした。

人間にだけ与えられている力は、「未来を思い描く力」。それを私は、自分の思うようになることに使っていたようです。夢とか希望という言葉に置き換えてもいいでしょう。けれども、本来それは、必ずしも「自分の思うとおり」ではないはずです。思い描くことは素晴らしい。でも、相手にも断る自由がある。思いが届かなかったり、本来の方向からずれていることもある。しばしば、思いが断ち切られて新しい展開になることもある。

私が裏切られたと思い、苦しんでいた事の奥底には、自分の思い込みがあったのです。「人生のすべては、地下の窓、地上の窓、天の窓から見ること」と言われましたが、まさに、地下の窓、自分の側からのみの窓から見ていたのです。

今は思います。悩んで苦しんだときに、無理やり自分を説き伏せなくてよかった。思う存分悩み苦しんだからこそ、自分の心の位置に気が付き、その自分を受け入れ、自然に浮上できた。「裏切られた」ことに感謝です。

「期待良し。受け入れられて良し。断られて良し。」故渡辺和子さんは言っていました。「期待するのは98%にしておきなさい。2%は、それが叶わなかった時の赦しのためにとっておいて」。そして、ゲシュタルトの祈りにも通じるなと思います。