共感された時

皆さんの『共感』された思い出には、どんなものがありますか?

と言いつつ、自分が最初に思い浮かべたのは『共感』されなかった時のことです。それは、妹が癌の診断を受け、「癌=死」という思いに覆われていた頃のことです。こんなことを言われました。

「大丈夫。一日生きればその分医学は進歩する。生きる可能性は高まる」……ううん……医学的見地をききたいわけじゃないんだけど。

「それはつらいね。私も母を癌で見送ったから、その辛さ分かるわ。でもね、あなたはいいわよ。まだ生きているんだもの。私なんか、どんなに親孝行しようと思っても、もう母はいないのよ(涙)」……おいおい、話がすり替わってませんか?

担任していた6年生の子どもたちにも、妹のことを伝えました。手術には付き添いたいと。すると彼らはこう言いました。「行け行け。先生、俺ら、先生がいなくても何でもできるぜ。とっとと妹さんのところへ行っちゃえ」「そうだそうだ。俺らをなめるな」。口をとがらせながら、でも、温かいまなざしで口々に言う子どもたちから、私は、『許し』と『共感』をもらったのです。ちょっと大人に見えました。

言葉も大切ですが、言葉以上に語る人の想いが伝わるのですね。『共感の心』。改めて考えてみたいと思います。皆さんの『共感』にまつわるエピソードも、ぜひ、お聞かせください。お待ちしていますー。

 

「共感された時」への3件のフィードバック

  1. そうそう
    そうです
    共感することが一番難しい

    そうそう
    そうです
    共感してほしい事が
    たくさんある

    そう
    元気のないときは
    共感が欲しいときは

    共感してもらえない事で
    傷ついたりする

    そんな経験をたくさんしているのに

    つい
    共感する事を忘れてしまう毎日

    自然と
    共感できる自分で
    いたいなあと思います

  2. ありがとうございます。幼子のような純粋さを持っておられるからこそのご感想。ひたひたと沁みます。

  3. 小学生の話に目頭が熱くなる、純粋な共感、愛が伝わってきました。
    話をすり替える。おばさんトークにはありがち。ですね。
    私も、幼子のような純粋さで人と接したいと切に願う者です。

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