あるものを活かす

もう何年も前のことです。脳出血を起こした母は、左半身完全麻痺で寝たきりになりました。ある日の母は、ベッドの下の方にいて、必死で上に這い上がろうと、残された右手と右足を使って懸命に這っていました。私の目にはその様子が、芋虫とか尺取虫の動きに見えて、呆然としてしまったのです。そんな私に母は言いました。「無くしたものはしかたない。私は、あるものを使って生きる」。圧巻のひと言。現実におののいて身動きできなくなっていた私に、母が喝を入れてくれたのです。

リハビリの原則が「残された機能を活かす」だと聞いたのは、しばらく後のことです。

私は、ついつい見えるものに心奪われ、揺れ動いてしまいます。失ったものの方に心が引っ張られ、後悔したりくよくよしたりします。でも、あの時の母は違いました。前を向いていました。生きる方に心を向けて、力強かった。もちろん、弱さや辛さが襲いかかって、落ち込んだり悩んだりもしました。当たり前です。人間ですから。

でも、私は、何か自分が揺れ動いてグラグラする時に、ふっとあの時の母の姿を思い出すようになりました。そして、人間のうちに「すでにあるもの」に光を当てる力強い生き方を思い出すのです。「無くしたものは仕方ない。あるものを使って生きる」。母が残してくれた宝もの。