幼い自分との出会い

「○○さんが怖い」と言った後のことです。«どうしてあんなことを言ってしまったのか…»という後悔の気持ちと同時に、なんだか安堵の気持ちも湧いてきたのです。どうしてなのか、心を探ってみました。すると、そこに待っていたのは、ふるえる幼い自分でした。

その子は、小学校低学年の私でした。ある夜、父が激怒し、兄を殴ったのです。兄の頬には手形のあざがうっすらとつきました。父の怒りの形相も、口をぎゅっと結んだ兄の硬い表情も、あざやかに蘇りました。そのそばで、ただただふるえていた幼い私。次の日の朝、兄の頬のあざは、紫色になっていました。そして兄は、その顔で登校したのです。兄の気持ちを思うと、いたたまれなくなりました。とはいえ、幼い私にはどうすることも出来なかった…恐れと後悔の気持ちがずっと残りました。

シチュエーションは全く違うのに、怖くてふるえた私の内側は、小学校低学年のまんまでした。数年前、同じような怖さを感じたことがあります。その時は、自分の中にある、父に似た攻撃性を持つ自分自身を認め、それを「情熱的で行動的」とリフレーミングしました。あの時は、確かにそれで納得したのです。けれども、その子自身に寄り添うことはしていなかった。ですから、満を持して幼い私が再度登場したのでしょう。今なら、この怖さにも震える気持ちにも寄り添ってもらえると思ってくれたのでしょう。

そう思うと、そのふるえる幼子が、愛おしくなりました。「怖かったよね」「震えるよね」「今までほったらかしていて、ごめんね」そう言ってその子のそばに寄り添いました。インナーチャイルドワークです。大人のふりして平気な顔をしようとしていた私に、その子は、「本当は怖いんだよ」「怖いもんは怖いんだ」「もう我慢しなくていいんだよ」と教えてくれたのです。だからこそ、安堵の気持ちが湧いてきたのです。「怖い怖い」「怖くて当たり前」「あの時も、今回も、怒る人は怖い怖い」今の私と幼い私がそう言いあって、お互いに気持ちを確かめあっているところです。不思議なことに、怖さをそのままに認め合い、何もできない自分を責めていた幼い自分に寄り添ってよしよししただけで、いろんな気持ちが溶けていったのです。現実の私は、今日もその人に出会います。けれども、怖さは全く質を変えていました。幼い私が、今の私に寄り添ってくれているようですね。

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