「『共感』ならぬ『共苦』だね」と言われたことがあります。それは、初めて聞く言葉でした。

それまでの私は、『共感』する側として、子どもたちや保護者の方の悲しみに寄り添うことが多かったように思います。けれども、うつの時には、それまで押し殺していた悲しみや苦しみ・怒りが、容赦なく押し寄せてきました。それこそ、死んだほうがましと思うくらい。そして、どうしようもなく苦しい時に、ふと、不登校や問題行動で苦しんでいた子どもたちを思い出し、「あの子たちが通った通った『闇』ならば、私も通ろう」そう決心して、自ら闇の中へ進んでいきました。結果、『共苦』という言葉をもらいました。でも、あれは、私が子どもたちに共にいてもらった時間なんです。そして、今言えるのは、自ら闇に向かう感覚は、逃げる時のものとは全く違ってたということです。「恐怖も誘惑も闇もあっていい。今はそこを生きる。」と受け入れただけで、ずいぶん安定したのを覚えています。そう。「恐怖」や「誘惑」に追われなくなったのです。そして、自分の脇にあるそれらの感情を眺めながら、闇の中を進んで行った記憶があります。今思えば、あれは、「自分」と「恐怖・誘惑・闇・不安」といった感情を分けて、それらも自分の一部と認めたということだったのでしょうか。おかげで、徐々に落ち着きを取り戻し、「闇」にばかり向いていた視点が変わったのです。「助けたと思っていた子どもたちから助けてもらったんです。」そう言ったら、元不登校の青年が握手しに来てくださいました。

『共感』『共苦』。言葉や立場はどうであれ、そういう感情を分かち合える人がいることは、幸せなことです。ここまで読んでくださって、ありがとうございます。またお目にかかれる時を楽しみにしています。