「あなたは木を見る人ね」そう言われたことがあります。記憶の中では、その直後に「木を見て森を見ず」と言われて、「あなたはダメ」と感じたのです。だから必死で、「森を見る私になろう」とがんばりました。でも、どう頑張ればよいのか分からなくて、新聞を読んだりニュースを見たり、人が話す時には、「この人は、どんな視点からこのことを言っているのか?」と意識もしました。でも、到底、「森を見る人」にはなれませんでした。情けない…そう思いました。
そんな私が、先日、「この人は部分を見る人だから」と言われ、「そうなんだよね」と思っていました。そんな自分の受け取り方の変化に驚きました。ふと思い出した言葉。「自分にないものに人は憧れる。そして、その憧れに自分から、今の自分を責める」。そのとおり!
「木を見る」つまり「部分を見る」のが持ち味の私なのに、自分にはない「全体を見る」自分を理想に掲げて、そうなれない自分を責めて打ちたたいていたんです。よく考えれば、あほらしい。時間の無駄。もったいないことをしていました。自分らしさを見失っていた時間だったみたい。
そんな私ですが、「これも自分」「あれも自分」「大切な自分」とせっせとありのままの自分を見つけてはその自分に「それでいいよ」と言い続けていたら、気がつけば「そうなんです。私、部分を見るのが持ち味なんです。だから、あんなによりよい授業を追求したり、ひと言にこだわってみたりしてきたんです」。と言えるようになっていました。そして、「全体も見る人」とコラボして補い合っていこうと思うようになっていました。自分でも、不思議ですが、これが『自己受容』の味わいなのでしょうね。
自分を見つけ、そのままの自分を生きる。楽ちん!